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10年前の地震の日

地震のあった日は仕事をしていた。

職場のテレビで地震を知った。

津波の映像を見たのはいつだったか忘れた。

職場で見た気もするけど時間的に家に帰ってから見たのかもしれない。

その年の盆休みに被災日へ行った。

所属していた教会が現地にハイツの一部屋を借りて教会員のボランティアの宿泊所になっていた。僕と同時に泊まった人たちは九州から来ていた。九州で人を集めてワンボックスを借りて交代で運転してきたらしい。他の地域の人間は僕だけだった。

翌朝、教会に集まってミーティングを行う。現地の教会員の方も被災していたけど、役所とボランティアの間で働いてくださった。当日行く場所の指示を聞き、道具置きになっている教会の一部屋から道具を揃えて出発する。溝掘なのでシャベルと一輪車と土嚢袋、側溝の蓋を開けるテコ、手袋。

場所は女川町。車で50分くらい。途中石ノ森章太郎漫画館の横や新聞で見た缶詰工場の大きな缶詰の看板の横を通った。半年近く経っていることもあって車の窓からは瓦礫もやや少なく見えた。しかし壊された家はほとんど残っていた。

初日は猛暑ですぐにくじけそうになった。途中熱中症になるのかと思った。九州グループのリーダーの人は年上だけどすごい体力で黙々と土嚢袋に詰めた土を一輪車で運んでいた。土はもうカラカラに乾燥していて硬い。女性も自分より体力があるように見えてなんだか情けなかった。同時に負けないように頑張らないとと思って必死にやった。

近くの家には津波の高さまで跡が残っていた。浸かっただけで綺麗に残っている家もある。何人の人がまたここに戻ってきてまた住むんだろう?再開発してこの溝自体もなくなるのだろうか?という考えがよぎる。しかしそれは僕が決めることじゃない。誰かが戻ってきた時に助かるのであればそれでいいと思うようにした。

ボランティアの二日日目外人さんが加わった。アメリカの学生。帰りに富士山に寄って登るらしい。三日目はボランティアを休んで松島に観光に行った。

最終日、九州組は一日早く帰り僕と外人さんだけになり、あと現地の人が何人か加わるらしい。僕が運転することになったが、当時はスマホもなく、PSPGPSアンテナとカーナビソフトを入れたものを使って現地へ向かった。地図が大雑把で途中民家に寄って道を尋ねた。

その家は一階の窓が全て壊れていたが、家の形は保っており見たところ綺麗で二階には誰かが住んでいるかもしれないと思った。初老の男性が出てきて地図を持ってきて教えてくれた。

そのあと、その人も被災して家族を亡くし一人になってしまったことを話してくれた。僕はその人と一緒にいてもっと話をしたいと思ったけど、車に人を待たせていたでの早く行かなければいけなかった。もう本当に後ろ髪を引かれる思いとはこのことだ。男性は車をずっと眺めていた。

次の日の朝、新幹線で帰る時に泣いた。

今でもあの男性はどうしてるかと時々思い出す。なんで地図に記録してまた会いにいかなかったんだろうと思う。心のどこかに「そこまですることか」という思いもあった。でも今は行っていればよかったと後悔している。行ったところで覚えているだろうかという思いもあった。心をよく吟味しないと選択を間違えて後悔することになる。